(前篇から続く)
以下に昔と今の芝浦4丁目の様子をまとめる。今の様子は実際に取材して写真を撮った。芝浦4丁目は、「田の字地区」と呼ばれる西側と、いまは「芝浦アイランド」と呼ばれる東側に分かれている。
芝浦は運河の街なので、高浜橋、夕凪橋、船路橋の3つの橋から撮った写真を見比べてみる(昔の写真は参考文献2,3より)。
高浜橋
最初に、高浜橋の南側から見た田の字地区を比べる。1954年の写真で「朝日冷蔵庫」と読める建物が、もともは「芝浦スケート場」だったらしい。現在の写真には、西側に芝浦小学校やキャピタルマークタワー、東側にベイシティタワーが写っている。
また、現在架け替え中の高浜橋のたもとには、少し前まで珍しい一軒家が残っていたが解体された。
夕凪橋
田の字地区と芝浦アイランドは、夕凪橋で結ばれている。夕凪橋はもう架け替え工事が終わっているが、高浜橋と同じように残っていた一軒家が解体された。もしかしたら、架け替えとなにか関係あるのかもしれない。夕凪橋から北側を昔と同じ角度で撮影した。モノレールとさん橋以外は同じものが見あたらず、昔は渚橋もかかっていないことがわかった。昔の写真に写っている田町ハイレーンはなくなったが、五十嵐冷蔵はグローヴタワーの陰になっているがまだ残っている。
ケープタワーがある芝浦アイランドの南東の端には、三井製糖 東部工場跡地(1952-2002)、芝浦製糖株式会社発祥の地(1949)のプレートが埋め込まれたモニュメントがあった。
船路橋
船路橋に行ってみると、船路橋児童公園に記念のプレートがあった。プレートの説明で、昔の船路橋は都電の工場につながっていたが、いまは芝浦アイランドに通じる人道橋に架け替わったことがわかった。近くに一軒家があったかはわからなかった。
船路橋から田の字地区のほうを昔と今で見比べると、やはり渚橋はなく、同じ建物も見当たらなかった。今の写真にはキャピタルマークタワーが写っていることから、昔の写真に写っているのは沖電気の工場だと考えられる。
船路橋の周囲をよく観察したところ、橋にレールが通っているようなデザインだったり、都電よりもっと古いらしい「路電」と刻印されたレンガが規則的に敷かれていたり、都電に思い入れがある人たちがいたことがわかった。
さらに、五十嵐冷蔵のほうに渡ってみると、レールの幅の痕跡で一部レールが露出しているところがあって驚いた。マニアの人は喜ぶのではないかと思った。
現地を取材してみて、さらに昔の写真と比べることで、高い建物がなにもなかったところが高層マンションに変わったことがよくわかった。
考察
- 取材で実際にレインボーブリッジの付近まで歩いてみたら、たくさんの倉庫と港は残っていたが、工場はほとんど残っていなかった。このことから、倉庫はこれからオフィスビルやマンションになっていくのではないかと思う。
- 2020年の東京オリンピックのときに、新しい駅ができるので、芝浦に大きなお店などができて発展していくのではないかと思う。
- マンションの値段があがっているので、いまでもほとんどない一戸建てはさらに減っていくのではないかと思う。
これから調べたいこと
- ほかのタワーマンションが建っている地域はどう変化したのか
- 都心の人口はこれからどうなるか
参考にしたもの
- 港区基本計画芝浦港南地区版報告書,港区芝浦港南支所(2015-2020)
- 港区私と町の物語 下巻 麻布、白金、高輪、三田、芝、港南,港区(2007)
- 増補 写された港区 二 高輪地区編(三田・高輪・白金・芝浦・台場ほか) ,港区教育委員会(2006)
- 港区ホームページ http://www.city.minato.tokyo.jp/
- 三井製糖ホームページ http://www.mitsui-sugar.co.jp/
- 沖電気ホームページ http://www.oki.com
コメントを残す